Essey
何しろ建築が好きなので、20年近いヨーロッパ生活の間に、随分とたくさんの建物を訪ねたが、その中で、最も心に残っている「家」は、フランスのサンテティエンヌ郊外の丘の中腹に、ひっそりと建っている小さな住宅。
アントニオ・ベニンカ Antonio Beninca とマリレーン・ポルタイヨー Marie-reine Portailler という、そろそろ還暦を迎える芸術家夫婦が、建てながら暮らしながら、四半世紀近くの時間をかけて、自分たちの手で造った家だ。
その家は、お椀を伏せたような、連なるシャボンの泡のような、不思議な形をしていて、表面のそこここに、円形の窓がある。家を建てるにあたって、最初に決めたのは窓の位置だということで、古い写真には、巨大なぺろぺろキャンディーのような原寸の丸い窓枠を持って、敷地と決めた更地の中をうろうろしている、若き日のベニンカが写っている。
その窓枠から見える景色や、入ってくる光を確認しながら、寝室の窓はここ、居間の窓はここ、天窓はここ、と、理想の窓の位置を決め、そこから、部屋割りを決めていったという。だから、この家では、どの窓にも、その部屋にふさわしい眺めがあり、そこから、部屋の用途にふさわしい量の光が、まるで周到に計画された、舞台照明のように、その時期の、その時間の、まさにその場所に、すうっと差し込んでくる。
家という限られたスペースの中にあって、食べるに、働くに、くつろぐに、眠るに最良の場所というのは、それぞれ一カ所しかないものだよ、とベニンカは言う。だから、その家には、いくつかの椅子を除いては、動かせる家具はほとんどなく、食卓も、ベンチも、ベッドも、たんすも、書斎の机も、本棚も、食器棚も、すべて、ここぞという一番ふさわしい場所に、造りつけてあった。
食卓は円形。一人で座っても、十人で囲んでも、絵になる大きさの丸い天板が、窓辺の、まさにここです、という場所に固定されていて、朝食の時間になると、周囲の壁天井には、窓の外にしつらえた水盆の水に反射させた朝日が、ゆらゆらと遊んでいる。
その家においては、何気ない取っ手も、小さな額に入った絵も、観葉植物も、食べかけのパンも、灰皿も、そして、散らかったメモに至るまでが、あるべき場所にある。
家の中で、頼りなげに、居心地悪そうにしているものが、一つも見当たらないというのは、何と心強く、気持ちのよいことであるか。
何度も何度も仮縫いをして、丁寧に仕立てられた服のように、その家は、暮らしの形に、生活の動きに、ピッタリと合っていて、そこには、できあいの建物に、いい加減に暮らしている限り、絶対に得られることはないであろう、極上の住み心地があった。
そして、それこそが、「建物」を「家」にする魔法なのかもしれない、と、気づかされたのだった。
more information about the house:
http://habitat-bulles.com/maison-bulle-de-antonio-beninca/
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